安井 弥前教授から

寄稿

No.104
胃がんも個別化医療の時代へ

広島大学大学院医歯薬保健学研究科分子病理学教授 安井 弥
日経メディカルCancer Review Vol.1 No.1 2017 Cutting Edgeインタビューより

非小細胞肺がんや乳がん、大腸がんではがん細胞の遺伝子をシーケンスして特定されたドライバーがん遺伝子変異に応じて薬物を処方する治療法が確立している。日本の代表的ながんである胃がんではどうか。加えて病理診断に人工知能(Artificial Intelligence:AI)を活用する診断支援システムの開発が日本病理学会主導で始まっている。胃がん研究はどこに向かうのか。分子生物学の最新手法を援用して胃がん、大腸がんなど消化管がんの成因を研究してきた病理学者で、2014年に第103回日本病理学会総会の会長を、2017年に第89回日本胃癌学会総会で会長を務めた広島大学大学院教授の安井 弥氏に聞いた(聞き手:Cancer Review編集室・小崎丈太郎)。

——抗HER2抗体のトラスツズマブが乳がんに加え胃がんに適応が拡大したときに、HER2検査が義務化されました。その際に盛んにいわれたのが、胃がんは乳がんに比べ多様性が大きく、HER2が陽性か陰性かの評価も難しいということでした。

安井 それはそうだと思います。乳腺は基本的に2種類の組織で構成されます。言い換えれば乳腺の組織幹細胞は2種類にしか分化しないということです。対照的に胃がんの組織幹細胞は多種類の細胞・組織に分化します。がん組織におけるHER2分子の発現の強度をみるHER2検査の評価も、乳がんよりも胃がんのほうがずっと難しくなります。

——病理学的にいうと、胃がんでは未分化型と分化型の2つに分けられています。これは形態の観察による知見の蓄積によって得られた成果だと思います。一方で、乳がんではマイクロアレイで遺伝子発現パターンを検索して4~6種類のサブタイプ(intrinsic subtype)に分類できることが明らかになっており、それらのタイプに応じた治療法が確立されています。胃がんでもそのような時代が来るのでしょうか。

安井 それは確実といってよいでしょう。胃がんよりも乳がんが先行していることは確かですが、胃がんでも早晩、そのような遺伝子発現パターンやゲノムの変化による分類が医療に取り入れられるようになります。既にがんゲノムアトラスネットワーク(TCGA)より2014年のNatureに発表された研究結果はその先駆けともいえる報告です。  295の胃がん組織の遺伝子発現データを解析したところ、「EBV陽性型」(9%)、「マイクロサテライト不安定型」(22%)、「体細胞性コピー数変化型」(70%)に分けられることがわかりました。体細胞性コピー数変化型は、さらに高レベルと低レベルとに分けられそうだと報告されました。
 ドライバー遺伝子変異がいち早く取り入れられた非小細胞肺がんでは、現在、ドライバー遺伝子変異ごとに細かく分類されています。ALK遺伝子変異陽性やROS1遺伝子変異などは2~3%の頻度ですが、それぞれに分子標的治療薬が開発されています。こうした希少フラクションに向けて治療薬の開発や探索が今後も進展していくと思われます。治療効果に直結する変異だからより厳密に細分化されるのは当然ですが―。
 胃がんの治療に分子標的治療薬がもっと登場するようになれば、乳がんや非小細胞肺がんで実施されたように、遺伝子変異をスクリーニングして有効な治療薬を選んで処方することが行われるでしょう。
 既にEBV陽性型胃がんでは免疫チェックポイントのPD-L1が過剰に発現していることが明らかになっています。ということは、このタイプの胃がんには免疫チェックポイント阻害薬が著効を示す可能性があります。

●次世代シーケンサーが日常診療へ

——非小細胞肺がんではドライバー遺伝子変異を次世代シーケンサーでスクリーニングし、そうした患者集団を選択して治療薬開発が実施されています。胃がんもそうなるでしょうか。

安井 次世代シーケンサーで胃がんのゲノムの変異やトランスクリプトームの解析が進めば、そうした側面が明らかになることは間違いないでしょう。非小細胞肺がんでも乳がんでも個別化医療が進むことは間違いありません。

——胃がんの新薬開発における治験のあり方も変わりますね。

安井 胃がんに限らず、がん種を超えてドライバー遺伝子変異ごとの治験スタイルであるバスケット試験が普及します。これはがん薬物療法における世界の趨勢といってもよいでしょう。例えば、ALK融合遺伝子陽性のがんは非小細胞肺がん以外でもみつかっていますが、胃がんでもあるかもしれません。こうしたALK融合遺伝子陽性のがんばかりを集めた治験が今後、行われることになるでしょう。

——がんの分類や診断に次世代シーケンサーは欠かせないものになってきましたね。

安井 次世代シーケンサーを用いたゲノム診断ガイダンスの策定が進んでいます。日本はこの分野では欧米先進国に遅れを取っているので、急ぐ必要があります。問題は保険で償還される対象になるかということですが、既にその動きは顕在化しています。

——次世代シーケンサーによる診断が日常診療の中に入ってくるということですか。

安井 すべての医療機関でそのような診断ができるわけではないし、その必要もないでしょう。精度が高い検査とその解釈が正確にできる医療機関を認定する形で始まることになりそうです。現在、検討が進んでいる第3期がん対策推進基本計画の中でも議論されているようです。

●AIの病理診断への応用

——話は変わりますが、病理診断や画像検査にAIを導入する試みが活発化していますね。

安井 病理学にとって大きなテーマです。日本病理学会では「AI等の利活用を見据えた病理組織デジタル画像(WSI)の収集基盤整備と病理支援システムの開発)事業に取り組んでいて、全国の大学病院病理診断科からのバーチャルスライドデータの提出が始まりつつあります。

——病理診断にとってAIの導入はどのような意味を持っているのですか。

安井 非常に大きな意味を持っています。病理医はチーム医療の一員として重要な任務を担っているはずなのに、膨大な数の病理標本を診ることに忙殺されているのが現状です。数が膨大になれば人間である以上、誤るリスクも出てきます。1万件に1回の誤りであっても、広島大学の私の教室では年間3万件に達することを考えると、年間3回の誤りが発生することになってしまう。これはよくないですね。
 もしAIが病理スライドを評価して、最初の所見リポートまで書いてくれるようになれば、病理医は本来の仕事に注力することができるわけです。

——「病理医本来の仕事」というと、どのようなものですか。

安井 今、病理医が主治医とともに患者に直接、がんについて説明することの重要性が増しています。既に全国20カ所の医療機関で病理医が患者に詳細にがんの特徴を説明する病理外来が始まっていますが、こうした取り組みは今後の病理学のあり方を示していると思います。
 また、がんは遺伝子ネットワークの病的な変異が背景にあります。現在はシーケンスしなければ遺伝子のどこに変異が入っているのかは明らかではないのですが、遺伝子変異とそのがんの形態的な変化をAIに学習させることができれば、病理学的な検査をしただけで、どの遺伝子が変異してがんになっているのかを評価することが可能になるかもしれません。既に世界の画像診断学や病理学はその方向に走り出しています。

——ゲノム診断と一言でいっても、実際はおびただしい塩基配列のデータを正しく解釈して胃がんの責任遺伝子を明らかにする必要があります。一方で、病理診断も膨大なプレパラートを検鏡する作業が現在までのところ不可避ということです。やはりAIのような技術による支援が欠かせませんね。

安井 胃がんだけではなく、次世代シーケンサーとAIはがんの診断・治療の双方に大きな変化をもたらすであろうことは間違いありません。

Profile

安井 弥(やすい わたる)氏
1955年神戸市生まれ。広島大学医学部を卒業後、助手、講師、助教授を経て2000年広島大学医学部教授に就任。1987-9年米国スクリップス研究所にてDNA修復と遺伝子発現制御の研究に従事。2013年に広島大学Distinguished Professorとなり、2014年から同大学大学院医歯薬保健学研究科長を務め、現在に至る。一貫して消化管がんの発生・進展に関する分子病理学的研究を行い、増殖因子、エピジェネティクス、新規診断治療標的を研究。2008年「胃がんのTranscriptome dissection」の研究により日本病理学賞を受賞、2014年に第103回日本病理学会総会を、2017年には第89回日本胃癌学会総会を広島で開催した。